ネパール大震災緊急支援
ヨタム・ポリツァー ネパール震災緊急支援プロジェクトリーダー
現地報告ブログ #01 2015/4/28
この48時間、感情的にも身体的にも非常な緊張感が続いた。現在私が住んでいる日本からネパールに向かう大変な旅の途中では、海外勤務先で愛する人が震災で亡くなったことを聞き、急ぎ母国へ帰国するたくさんのネパール人にも出会った。
飛行機の中で出会ったBimal Shresthaという一人の紳士は、明らかに深いショックを受けている様子だった。彼は震える声で、妻と4歳になるひとり娘の上に、寺院の建物が崩壊したと話した。土曜日の午後、寺院での祈りの最中に、突然彼らを地震が襲ったのだ。
これまでたくさんの被災地で仕事をしてきた経験から、Bimalの話してくれたようなことが、今ネパールで同じことが何百人、何千人もの人に起こっていることはわかっていた。とにかく、今は彼の話にしっかりと耳を傾け、ビマルが母国語でショックと悲嘆の気持ちを十分に話す時間と余地を提供し、また、かつてネパールに3年半住んでいたときに身につけたネパール語で、できる限りの慰めの言葉をかけるよう努力した。
彼との話が進むにつれ、今この大惨事の中では、生活の基本的ニーズへの対応だけでなく、被災者への感情的なケアと心理社会的支援がすぐに必要だとも感じるようになった。徐々に、懐かしいはずの光景がどのように変わり果ててしまったかを考え、不安にもなってきた。
現地が混乱のさなかにあるのは、着陸直後すぐにわかった。空港は、ネパールを離れようとして狂乱状態にある人と、私のように今まさに到着する人でぎゅうぎゅうに混雑し、非常に慌ただしかった。悲壮感をもって出国を待ち望む人々と、逆に必死に入国したがる支援者が、不思議に混じり合う光景がそこにはあった。
すぐに何人かの同僚と現地の知人の出迎えを受けた。イスラエイドの現地コーディネーターで、古くからの友人であるSudishは、災害発生後数時間のうちに必要な基本的手続きや作業の多くを終えていた。続けて、現地の役人や他の国際機関とともに、イスラエイドの考えた支援プランを共有し、今後の活動のコーディネートを行った。その後、カトマンズの中でも最も被害が大きかったエリアのひとつであるゴンガブ(Gongabu)に車で向かった。空気は重く埃っぽく、街に目をやると、潰れた家や折れた寺院、崩壊した建物が見え、道は瓦礫で埋まっていた。
移動中、地元警察と軍隊が、瓦礫から遺体を引っ張り出すのに苦戦しているのが見え、車を止めた。ネパールの特殊部隊の部隊長であるタパ司令長に、間もなく救助隊が到着し、一番ニーズの大きいエリアから活動を始める準備ができていることを伝えると、彼はほっとしたようだった。
現場のアセスメントを行ったところ、カトマンズ外のエリア全てにまだサポートが届いていないことがわかった。そのため、我々は活動エリアを一番被害の多かった地方エリアであるシンドゥパルチョク(Sindupalchok)に集中させることに決めた。
遺体の捜索が続けられるなか、我々はそこで地元に住むManu Dhakalという男性に出会った。彼は涙を流しながら、自分の妻、娘、兄弟、そして父親がまだ瓦礫の下に埋まっていると語った。彼は、元々レストランがあった方向を指差しながら、どうか家族を探す手助けをしてほしいと我々に懇願した。彼の家族は、建物全体が崩壊した瞬間、そのレストランで土曜日のランチを楽しんでいたのだ。
首都の大部分は、かつての姿を思い出せないほど破壊されてしまっていた。しかしすぐに、私がこの国でこれまで出会ってきた、暖かく思いやりがあり芯の強い人々はそのままだということがわかった。
まるで故郷に帰ってきたような気持ちになり、目の前にある困難に立ち向かうが心構えができた。
これから何週間かの間、イスラエイドの緊急チームは行方不明者探索と救助、医療支援と心理社会支援に集中していく。